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​私か、世界か

 深夜の地下鉄駅構内で電車がホームに入る瞬間、4人の人間―会社員の轟、看護師の辻元、バンドマンの八田、大学院生の水瀬―が線路に転落してしまう。しかしなぜか電車に轢かれることなく目覚めた彼らは、自分たち4人以外の全ての人間および、世界全体が静止していることに気づく。ただし空気は動いており、人間は動かせないが無機物は動かせるようだ。都合よく当然スマホは使えない。そしてどうやらこの現象は、大学院生の水瀬が生死の危機に直面した際に引き起こしてしまうものらしく(他の3人も静止しなかったのは転落の際にたまたま水瀬に触れていたからだった)、同様の現象が過去にも1度あり、50年ほどの静止(!)の末に水瀬だけが生き残ったこと、そして時間を再開させる方法は、無機物以外の動かしたモノ―つまり静止を免れた人間が、(たとえ死体であっても)全員静止前の位置に戻ることだと水瀬から語られる。しかし彼らにとって静止前の位置である線路上に戻るということは、時間の静止が解かれると同時に電車に轢かれることを意味し、むざむざ死にに行くようなものでしかない。だが静止前の位置に戻ることを拒めば、文字通り止まってしまいピクリとも動かない肉親たちとの、発狂せんばかりの絶望的な退屈―劇中の台詞によるとまるで「死後の世界」のような「過去も未来もない 永遠の今」が待っているだけだ。自らの予定通りの死の代わりに止まった世界を再開させるか、あるいは絶望的に退屈な生の代わりに世界の人々の生を停止させるのか。言い換えるなら、私たちは他人および世界全体のために自らを犠牲にすることが出来るか、あるいは他人の時間を奪ってまで怠惰な生を生きる価値はあるかと問いかけられるのだ。そして本作のほぼ2面舞台における演者との物理的な近さは、この「限界状況」(ヤスパース)の思考実験に観客を容赦なく巻き込んでくる。

 彼らは自身の死を回避するかたちでの世界の再開可能性を模索するものの、辻元の自死によってその望みは絶たれてしまう。残された3人には限界状況からの開放感とともに絶望的な退屈だけが回帰するが、映画好きの轟の主導で時間潰しに始まった黒澤(明)映画の鑑賞から、なんと彼らは8ミリカメラでオリジナルの映画作品を作るまでになる。絶望的に退屈な生を楽しく生きるための、他者の承認を必要としない純粋なものづくりの重要性が静かに差し出されるこの一連のシーンには、いわば時間の豊かな停滞が描かれておりとても印象深い。

 しかし、実は生きていた辻元の再登場とともに再び彼らはあの限界状況に引き戻され、まるで全員そうすることが決まっていたかのように、止まった時間を、世界を再開させることを、世界全体のために犠牲になることを、Vaundyが爆音で流れるなか駆け足で選ぶのである。果たしてほんとうにそれでよかったのだろうか。いや、世界を止めてまで汚辱にまみれた生を強かに楽しむという選択肢はありえないのだろうか。実に丁寧に描きこまれた2時間超えも納得の作品であったが、真の限界状況の思考実験はここから始まるのだとも思えてならない。ここで止めてしまうのは惜しい。3時間超えでもかまわない。

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​撮影:殿(トウジツ屋)

執筆者 プロフィール

三田村啓示(みたむらけいじ

主に関西圏を中心に、演劇について多岐にわたる活動を行う。第18回(2015年)関西現代演劇俳優賞受賞。KYOTO EXPERIMENT主催【批評プロジェクト 2025】にて、「告白と謎」が最終選出作に選ばれる。最近は労働と育児の合間に演劇作品に出られそうなら出たり、雑文や劇評を書いたりする。WINGCUP審査員については、ウイングカップ5より10年にわたり務めた。

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