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「アドレスのない私」

毒親からの逃走物語だったが、なんだか不思議なのはその解決に神様のようなものが出てくる事だ。
 娘・あおいは母親・あいこに抑圧されている。母親は、劇中で〈ノヴァ様〉という神を信仰する宗教を信じており、水などの訪問販売もしている。この宗教は黙示録的な世界観を持っており、〈カタストロフィー〉という大洪水を生き残るには有能な人間でないといけないとされる。その価値観の下、あおいに暴力を振るうこともある。あおいの医学部合格の夢には、祖父や曽祖父が医者になれたのに自分はなれなかった母の欲望が重ねられている(この母子の得点は操作されているのかもしれない)。また生活費の工面を娘のパートに頼っている(これは母親が悪いことなのだろうか)。離婚した夫と結婚してしまったのは自分が医者になれなかったからだと思い込んでいる。あおいはそんな母親を哀れに思いながら、自分の無能さが母親を苦しめていると自罰的になる。
 この母子の話自体は、あおいが、子供の頃からの幼なじみ・みどり、パート先の同僚・しずか、ホームレスのおじさん・きよし達と交流を重ねるうちに、自分の生きてる環境のおかしさと抑えていた本当の自分に気づき、母親をハサミで刺し、医療刑務所に収監されているところで終わる。あおいは心の自由を獲得し、昔に子供を亡くしたしずかと、いつか京都の田舎で一緒に住む事を約束する。ここまでは現実でも無いとはいえない、社会の無慈悲さに無力感を覚える話である。
 が、そのあと観客に明かされる事がある。実はきよしは人間ではなく(!)、母親の信仰する〈ノヴァ様〉と同名の、人間を超える超越的な存在だったのだ。また、みどりはきよしに仕える者なのだろうか。彼女は、人間のところに赴き、人々を善い方向に導く使命のようなものを帯びているらしい。みどりはあおいをうまく導けなかった事をきよしに咎められたりする。
 きよしは人間の可能性に賭けるため、新たな赴任先の書かれてるであろう封筒をみどりに渡す。みどりの新たな赴任先は私たちかもしれない。なぜなら、彼女は劇場の外ー私たちの社会に出ていったのだから。

 この劇は、結果的に、私たちの生きる現実に実際にある母子の問題には深入りしようとはしていない。母子の描写は、社会構造の分析や、個人の実在の探究には向かわず、状況の悲惨さの方に割かれていくからだ。なので私はこの母子の関係じゃなくてもこの作品は成立するだろうと思った。誰かが悲惨な目に遭っていればいいのだろうか。だとすれば、この話は母子にまつわる話では無い。何の話だろうか。

 この話は、規範の再構築の話だろうか。こう考えるのは、ラストシーンで、この現実にも〈ノヴァ様〉のようなものがいるという締めくくりになり、迷える人々に対して彼のような存在が見守ってくれている事が仄めかされるからである。規範の再構築。この劇に固有の手つきで、賭けてるものがあると感じる。そしてそれは、戯曲と上演と私の組み合わせの中で、うまく達成されていたと思う。
 この劇の題材は、冷たく、触れる手が裂けてしまう様なものだが、人への優しさや、辛い世界でふと一息つける瞬間が上演される。人が生きていくことを諦めない事が確かに手応えを持って感じられる。
 だが、私はこの優しい劇に居心地の悪さを感じる。和やかなカーテンコールを見ながら、なんだか妙だな、と思う。
 1つ目。私には、あいこもきよしもある点で大差なく見えているからである。あおいにとってなかなかの悪人として描かれるあいこと、あおいにとって良き理解者として描かれるきよしには自明とされたある共通点がある。あいこは能力主義者であおいに、神と社会とあいこ自身に有能であるように求める。一方、きよしはそれは求めない。が、生きる意味を探し続けることは求める。
 意味のない命なんてないという事は、命の無価値に意味を見出せという事を自明としている。これは「生きる上で価値を見出さなければない」ということ自体の検討を先送りにしている。この点で二人は同じだと思う。きよしは、他人がなんと言おうが自分自身には有能であれと求める。私はそういう優しさに守られたくない。

 2つ目。この作品において、人の抱く抑圧された気持ちが、抱かなければ全てがうまくいくものとして認められる構造がある。例えば、暴力性を度々演じるみどりの存在が更生可能な気持ちの象徴であるような扱いや、きよしの『死のう、思たらあかん。』というセリフ。私はどうも不気味に感じる。私は、私の死にたさは私の死にたさだ。と思う。
 私は、なぜ、多くの人々が、私の「死にたさ」を認めようとせず、せめて並走しようともせず、機械のように、同じことを言って止めるのだろうか。とよく考える。「ご飯を食べろ」「寝ろ」「気の迷い」等。《死のうと思うこと自体》がなぜこんなに禁止されるのだろうか。そこではいつも、何か過程が飛ばされている気がする。それらの人々の中では私は今にも死にそうだ。違う。私はただ、今、《死にたいと思ってるのだ》。この事を語る難しさが分かるだろうか? 今、苦しさのアピールをしているのではない。この事を取り扱う難しさを話している。
 最近、人々の「死にたさ」についての、禁忌とするようなシステマティックな傾向と空気に考えるとこもあってかなり引っかかった。

 最後に3つ目。どうも〈ノヴァ様〉は、死んでしまった人間と人間以外の可能性に興味が無さそうな所だ。ラストシーン。この世界で人間が生きていく未来について語られる時、当たり前のように、死者も動物も無機物も(挙げ尽くすのは不可能だ)排除されてしまっている。可能性を持って現在を前進する人間だけがここでは、暗に寿がれる。この世界観に私はきっとついていけない。

 以上である。なので今私は、優しく見守ってくれそうな〈ノヴァ様〉と浮かび上がってきたこの規範を戦うべき相手だ。くらいに思っている。
それでも、この優しさは、私のとこにも、誰かの形をしてやって来るのだろうか。いや、きっとこんなことを言っているうちには、〈ノヴァ様〉の封筒の宛先が私になることはない。しかも、宛先となるにはアドレスがいる。アドレスが無いところには何も向かわないのだから。

 

レビュアー プロフィール

吉田凪詐(よしだなぎさ
コトリ会議 俳優​

山口県出身。1995年生まれ。主に俳優として活動。劇団で遠方に行ける事が楽しい。演劇を作る事が楽しい。上演する事も同じくらい楽しい。演劇は人に言えるほどあまり見ていない。本が欲しい。NUMBER GIRLが好き。

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