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「不在の38」

夢を追う若手漫才師の青春群像劇、であるならば当然舞台上にあるはずのものがない。センターマイク。二人の間に聳え立ち、空間を規定する、ある種の神聖さすら帯びたあのトーテム。拠り所にするべきそれがないということが、この作品がただの夢追い物語でないことを示している。

 

 ボケのダイキとツッコミのツトムで構成されるお笑いコンビ「ロンリークラウン」の漫才からこの劇の幕は上がる。「子どもが将来ヒーローになりたいと言い出したらどうするか」というオーソドックスな漫才コント形式のネタが示唆的だ。このネタを書いたのは「ロンリークラウン」の二人ではなく、彼らのファン兼マネージャーのユイなのだが、ダイキ、ツトム、ユイ、この三人の登場人物全員、問題のある家庭環境で育ったアダルトチルドレンなのである。自分が親になったときに子どもにどう接するかという問題は、自分が親にどう接されてきたかという問題と表裏一体であり、このネタにはユイの願望と、エールが詰まっている。ユイのことが好きで、昔ユイが父親から性的虐待を受けている現場を目撃しているツトムは、「あいつ殺そう」と息巻く。父殺し。この世界を支配者から取り返すこと。一見するとフロイトの精神分析的な世界観でこの物語は進んでいくかのように見える。

 漫才の大会の準決勝まで勝ち進み、その祝賀会で先にダイキとユイが祝杯をあげる中、酔っ払ったツトムがやってくる。部屋に入ってくる勢いの凄さから、ついにユイの父親を殺したのかと思った観客も多いはずだ。だが、そうはならない。むしろ逆で、自分の妹がパパ活している現場を目撃してしまったと話す。そして、漫才師の夢を諦めると言い始めるのだ。パパ=父=支配者によって、ツトムは再び去勢されてしまう。自分の思い通りになることなど、何一つないことを思い知る。結局、準決勝はダイキの寝坊で上手くいかず、そしてあろうことかユイは事故によってなくなってしまう。その晩、ユイは幽霊としてそれぞれの部屋に現れ、二人に漫才を続けてほしいことを伝える。二人は彼女の死と、最後のことばを受けて、「ロンリークラウン」を再結成し、上京した今も彼女の書いたネタを劇場でかけ続けている―このユイの作中での扱いはあんまりではないか。生まれてから死ぬまで、いや死んでからさえも、彼女は男のための存在でしかなかった。男の欲望を叶えるための犠牲者だった。そんなふうに見えかねない。

しかし、だ。私はこの作品が、そのような批判されるべき女性表象の扱いも含めて、現代の若者の現実、空気感を捉えた側面があるように思う。確かにユイは家父長制の最大の犠牲者だったかもしれないが、ではダイキやツトムはどうなのか。38マイクすらない空間でひっそりと漫才をする去勢された彼ら。笑いには、今当然視されていることに別の視点を持ち込み、脱臼させる、そんな力があった。マイクには、拡声する、弱きものたちの声を掬い上げる力があった。だが、お笑い界のその家父長制ぶりが問題視され始めた昨今、では果たしてそこでセンターマイクを手に入れるとはどういうことを意味するのだろう。彼らが抗って、父を殺したところで、センターマイクを手に入れたところで、それは同じ構造=家父長制の再生産ではないだろうか。自分が親になったときに子どもにどう接するかという問題は、自分が親にどう接されてきたかという問題と表裏一体なのだ。ユイの書いた漫才は、その再生産の暗示とも言えるだろう。

 

不在の38。この作品が真に描き出そうとしているのは、この家父長制社会のイグジットは未だ見つかっておらず、私たちにできることはマイクもいらないような小さな共同体の中で、耐え忍ぶことだけだという若者の現実なのではないだろうか。

 

レビュアー プロフィール

泉宗良(いずみそら
うさぎの喘ギ ウイングフィールドスタッフ

1996年生まれ。大学の演劇サークル入部を機に演劇を始める。在学中にうさぎの喘ギを旗揚げ、主に劇作、演出を担当し、ウイングカップ8で優秀賞を授賞。大学卒業後のコロナ禍では配信であることを逆手に取った作品を発表し高い評価を得る。2022年度よりウイングフィールドスタッフ。

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