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「外を求めて」

大富豪の夫を亡くした女がひっそりと暮らしている屋敷「クロユリ」を舞台に、花の名をつけられた人造人間達の(人造)人間模様を描いた本作。謎が出てきては明かされ、出てきては明かされと、観客の集中力を保たせる秀逸な展開でした。また、これだけの人数の描き分けができていて、この小さな空間で渋滞させることもなく会話させるというのも細やかな配慮が必要なはずです。俳優達も。歌ありダンスあり、そして家具として止まっている時なんかも美しく、あ、なんと本作舞台装置は一切無く、屋敷の門や室内の家具なんかは全てこれ俳優達の身体表現に任せられていました。彼女ら彼らのすばらしい身体能力も本作の見どころでしょう。総じてとても能力の高い人たちなんだろうなと思いました。ただ、ちょっとお行儀が良すぎやしないでしょうか?

 演出家というのは俳優を動かしてまっさらな舞台に物語を描いていくのが仕事で、すなわち俳優というのは自分の身体を上手に制御することが仕事なのかもしれません。しかし、身体というのはもどかしいもので、これが結構骨の折れる作業です。私自身俳優を志し身体訓練を積んでいたこともありますが、まずただ舞台上に立つということだけでもひどく苦労したものです。気をつけているつもりでも猫背になっていたり、舞台上に立つとなぜかまばたきをすごくしてしまったり、そんなつもりないのにナンバ歩きをしていたり。そういう「癖」を演劇部の先輩達に丁寧に直してもらった記憶があります。

では、そういう癖を直したらどんな役でもこなせるのかというとそうでもない。どんなに狙って稽古を重ねたヒロインオーディションだってあっけなく落ちるし、宝塚の男役は高身長女子じゃなければ務まらない。これはしょうがないことで、というのは演劇というものが観客あってのものだからです。俳優は何かを求められている。ヒロインにふさわしい華のある顔立ちかもしれないし、王子様にふさわしいしなやかな手足かもしれない。権力でっぷりのおじさまらしいお腹周りかもしれない。逆に、様々な事情で集められない役、例えば幼稚園児役だとか死にかけの病人役だとかについては「約束事」として本当は幼稚園児じゃないけど、すげー健康体だけど、誰もツッコまずに見たりもするけど、それはそれとして。観客は自分たちが見てきた景色(あるいは見たこともないかもしれないけどなんか持ってるイメージ=先入観)と照らし合わせることなしに舞台上を見ずにはいられない、残酷な存在なのです。それに応えるため、俳優は絶え間ない訓練を必要とされる。

 とはいえ。どんなに訓練を重ね、身体を制御しようと思っても必ずどこかに綻びは出てしまうものです。例えば、家の家具のように眠っている彼らに腰掛ける時の仕草。指先やお尻に相手を気遣うような、遠慮するような身体の緊張が見えました。その後何事もなかったかのように、ゆったりとソファに腰掛けるようにくつろぎましたが、ほんの一瞬、そんな緊張がありました。私があの時観たのは、おそらく〇〇役ではなくて、俳優自身だったように思います。「訓練が足りねーぞ!」とかそんなことが言いたいのではなくて、それはひどく当たり前で、まっとうなことなのだと思うのです。だって、そこにいるのは生身の人間だから。何の緊張もなく人の身体に触れる世界は恐ろしい世界だと思います。身体というのはその人自身以外の誰のものでもないし、誰かの身体に触る行為にはいつも敬意が払われなければならないはずです。こういうものは物語上必要のないノイズなのかもしれませんが、彼女ら彼らがクリエイターが何もないところから作り出したキャラクターではない以上あってしかるべきだと思うのです。ていうか、ノイズが消えた人間とか見たくないし。せっかく生身の人間がそこにいるのに、あえてアニメキャラみたいな統制のとれたもの見なくていいじゃん。そんなものは家に帰ってネトフリでも開けばいくらでも出てくんだから。すべての演出家は俳優が統制可能な存在だなんて思わないでほしい。コントロールできる範囲で作れるもんなんて知れてるもん。そしてすべて観客は、コントロールされたものを求めて劇場に来てはならないと思う。そんなものが見たいなら軍隊のパレードで十分十二分。きっと美しいですよ、知らないですが。

最後にもう一点、本作で気になった点について書いて私のレビューの結びとします。それは、「一心寺神楽」という人物についてです。彼女は自分の私欲のために人造人間を作っておきながら、屋敷に閉じ込め、失敗作は次々切り捨てていく、本作における悪女として描かれているように感じました。「一心寺の妻」という形にすがって、そのための手段を厭わない、狂った女……そんな風に彼女が扱われることが私は苦しい。「誰々さんの妻」として夫ありきで自分を語られることの屈辱を想像したことがあるでしょうか?物語の道具として「妻」という存在を使ってはいないでしょうか。私は彼女を抱きしめたい。「神楽」と呼ばれぬ彼女を。彼女に「神楽」という名前があったことを私は当日パンフレットで知りました。「一心寺様」「一心寺さん」と呼ばれ、夫の代わりに女主人として振舞って。そのくせ、所詮夫の金、なんて言われて。そんな彼女がいったいどうやって自分を取り戻すというのでしょう?自由にしてくれ!と叫ぶ彼らは彼女の孤独に気づきません。そういうわけで私にとってあのラストシーンはあまり感動的なものではありませんでした。アイリスに希望なんて抱けませんでした。希望を抱けるとすれば、アイリスが見た鳥や花々……そんなものが本当にあるのだとすれば。だって現代社会で一銭も持たずに外に出たって、待っているのは絶望だから。だってここはあらゆるものがお金と無縁ではいられない世界。人間の食べかすを漁るカラスと、葉を伸ばしては剪定される街路樹、人間を楽しませるために植えられ、場合によっては観覧料すらかかる花々。残念ながら私はそんなものしか見たことがないのです。アイリスが見た鳥や花、自由を見てみたい。そんな場所があるなら、私だって連れ出してほしい。ここではない外へ。

 

レビュアー プロフィール

足達菜野(あだちなの

伊丹想流劇塾第5期を卒業後、脚本執筆に勤しんでいる。
今年の目標はいっぱい上演すること。
俳優としても活動中。
近年の出演作は
2022年地点イヴ・シリーズ『水鶏』
2023年うさぎの喘ギ第9回公演『いつだって、はじまれる』
2023年うさぎの喘ギ第10回公演『演劇RTAハムレット』 など。

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