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「人生は繰り返されるべきか」

人生にやり直しが効くならば、どれほど有意義だっただろうか。少なくとも、まだ始まったばかりのこの数十年の人生でさえ、後悔の連続である。あのときこう言っておけばよかった、あのときこれをしておけばよかった。そんな人生を、一度なかったことにでもしてしまいたい。もっとトライアンドエラーを繰り返し、そして、もっと人に自慢できるような人生になるかもしれない。私は、そんなことを何度も考えたことがある。本作はそんな切望を具現化したような作品であった。

 序盤に、「青い鳥症候群」の話題が取り上げられた。本作では「幸せを遠くまで探し続けてしまう 今の幸せに満足できないの」と言う安井の憂いを帯びたようなシーンが特徴的であった。青い鳥症候群とは、自身を取り巻く環境に満足できず、よりよい環境を求めてしまう現象をメーテルリンクの童話「青い鳥」にちなんで名づけられたものである。個人的な感想だが、青い鳥症候群の例を、海軍カレーと結び付けるのは甚だ秀逸であると感じた。海軍カレーには隠し味でコーヒーが使われるが、その代用品としてコーヒープリンが使われることがある。だから、カスタードプリンでも成立するのではないか、という突拍子もない会話のオチは、プリンよりもお好みソースのほうが美味しいということだった。このことから、どうすればより良くなるかを試行錯誤した結果、最善の結末を逃してしまったことを揶揄するシーンがあった。私はこの現象を郷愁という言葉と結び付ける。例として亡くなった祖父母が居るとする。昔を思い出して哀しみに暮れる感情(祖父母に会いたいという感情=美味しいカレーを食べたいという感情)の、その前には必ずその事柄の基盤(祖父母との関係が楽しかったという経験=口に合うカレーを食べた経験)がある。一周回ってそれ(どんな手段をとっても祖父母が生き返ることはないこと=何を隠し味にしても違う気がすること=全く同じものは絶対に再現できないこと)が恋しくなる現象は、まさに「青い鳥症候群」との因果関係にあるのではないだろうか。ゲームを題材に置いた本作の大意がこれであるとするならば、私はこの作品を大きく賞賛したい。あまりにも話題の膨らませ方が逸脱しすぎていたのだ。

 しかし、メインの部分にも触れていきたい。

本作の戯曲にはメインプロットとサブプロットが上手く組み込まれていた。窪塚と葛城の会話が主に見られたが、その会話の大半は2人にしか分からない友情(メインプロット)と、恋愛における願望(サブプロット)が多く見られた。また、「デジャヴ」と称された特定の場面が繰り返される現象はいずれかに偏っておらず、まばらに確認された。さらに、本作の舞台美術は些か特徴的であった。美しさよりもリアリティを求めた、あえて言葉をぶっきらぼうにいうなら「ちょっとだけ気分が悪くなるような」「ほんの少しだけ吐き気を催すような」、そんな空間である。それがやけに共感性を誘い、観客にとってはこれくらい生々しいと妙に内容に吸い込まれる。言葉を選ばないとすればこの気持ち悪さと言うだろうか、世界が繰り返されるのを目の前で感じ取ったとき、都合が良いようで都合が悪いような、そんな我儘な感情が芽生えた。

目まぐるしく繰り返す世界が、後悔の数を増やすような、じれったいような気持ちになる。人生が繰り返される必要がないのは、何度も後悔しないで良いように、何度も苦痛を味わわないで良いようにするためだと、この作品を観て思わずにはいられなかった。デジャヴは、後悔を大後悔にしないために、我々人間には必要無いのである。それが本作の大意であると、私は顧みる。

 

レビュアー プロフィール

村上萌(むらかみもえ
主に役者、戯曲、衣装の勉強をしています。

2022年に近畿大学文芸学部芸術学科舞台芸術専攻に入学。34期生として舞台芸術に関する全ての分野を幅広く学ぶ。

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