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「未完の円環」

当時の恋人に観覧車に誘われたことがある。乗ったような気もするし、乗らなかったような気もする。乗って、上がって、下って、降りる。それだけのことに何故私たちは永遠を感じたりするのだろう。

 

どことなく0年代の匂いを感じさせる舞台だった。高校の映画部の仲間たちのたわいもない日常からこの作品は始まるのだが、演技の解像度が異様に高い。クラスの中では日陰者なのであろう人たちが、気心の知れた者といるときにははしゃいでいるのだが、はしゃぎ慣れておらず、はしゃぐという行為の参照先が学園モノのアニメやギャルゲーであるため、なんか変なはしゃぎ方になっているという状態が俳優の演技によって提示されており、まずその精緻な人物造形に感心すると同時に、その質感に、どこか懐かしさを感じる。といっても、私が中高生の頃は既に10年代初頭だったわけだが、0年代の名作と言われるアニメを履修していた時期でもあり、そこには0年代的な質感への懐かしさと、そういったものを楽しんで影響を受けていた中高生のあの頃への懐かしさ、その二つの懐かしさが同居しており、なんとも奇妙な感覚を受ける。

そして、その奇妙な感覚は、次第に物語に対しても抱くようになっていく。どうやら、私がたわいもない日常だと感じていたこの世界は、登場人物の一人、高校生映画監督の安井が創った未完の特撮ドラマ作品、「ミラクルマン」の完成しなかった50話目であり、通り魔事件によって安井を失ったという現実に耐えられずに、映画部の橘と葛城は安井の創った世界の中で揺蕩い続けているようなのだ。この、タイムリープ的、ノベルゲーム的なメタフィクション構造は、やはり0年代の匂いを感じさせるものであると共に、それは前段で述べた奇妙な感覚を与える演技体とも共振し始める。あの世界の住民は、まさに学園モノの創作物から影響を受けた高校生であると同時に、実際に学園モノの創作物でもあり、あの演技体の必然性を感じさせる。そして橘と葛城は安井との思い出と安井の創作物の思い出、その二つどちらからも離れることが出来ない、郷愁を抱え続けた存在なのであり、それはあの演技から私が受けた二つの懐かしさと結びついていく。安井の創作物への郷愁=0年代的な質感への懐かしさと、安井との記憶への郷愁=中高生のあの頃への懐かしさ。それはより大胆に分けてしまえば、あの頃信じていた物語、価値観、つまり、<世界を象っていたものへの懐かしさ>と、あの頃実際にあった出来事、現実、<世界そのものへの懐かしさ>と言えるかも知れない。

物語はやがて、「ミラクルマン」の世界の中だけの存在である窪塚が50話目を創ることでこの世界を閉じようとするという運びになっていく。窪塚は葛城をある種のダブルバインドへと導くことでこの状況を打破しようとする。窪塚は自身が「ミラクルマン」50話目の怪獣として葛城を殺そうとすることで、創作物である窪塚には現実の存在である葛城を殺すことは出来ない、葛城はこの世界の住民ではないということを示そうとする。葛城がこの世界の中に留まり続けるためには、葛城もこの世界のキャラクターとして振る舞わなくてはならないが、それはつまり再びヒーローとして、怪獣を倒す、50話目を終わらせるということになる。いづれにしても葛城はこの世界を出ていかなくてはならない。そして二人が向かい合い、指でつくった銃の引き金を同時にひくところでこの劇は終幕する。

ここで描かれていることは、虚構の世界を後にし、現実へと帰っていく物語といえるだろう。だが、私はもう少しだけつぶさにみてみたい。どういうことか。この劇の終幕では、葛城がどのように現実へ帰っていったのかは描かれない。50話目を創り閉じて帰っていったのか、それとも50話目を未完のまま、帰っていったのか。その両方の可能性が残されている。私は、葛城はその両方の可能性を携えたまま帰ったのだと思いたいのだ。それはまるで、<世界を象っていたものへの懐かしさ>と<世界そのものへの懐かしさ>、その両方を掬い上げるかのように。50話目を創り閉じることは、<世界を象っていたものへの懐かしさ>を<世界そのものへの懐かしさ>へと収斂させることでもある。それは葛城にとって、あのときヒーローとして信じていたものを客体化し、もう一度信じるということだろう。だが、50話目を未完のまま、懐かしむこともできるはずなのだ。<世界を象っていたものへの懐かしさ>をそのまま保持するということである。あのときヒーローとして信じていたものをあの時のまま、信じる、あるいは信じていたらどうなっていたかを考えること。それは、あの時のままの自分がきっとどこかにいるということでもある。

 

乗って、上がって、下って、降りる。それだけのことに私たちが永遠を感じるのはきっと、あのまま降りずに乗り続けた私たちのことを想像してしまうからだろう。可能性としての永遠。可能性としての未完。恋人とは多分乗らなかった。けれど、私たちは世界そのものだけでなく、ときに世界の可能性を、懐かしむことができる。

 

レビュアー プロフィール

泉宗良(いずみそら
うさぎの喘ギ ウイングフィールドスタッフ

1996年生まれ。大学の演劇サークル入部を機に演劇を始める。在学中にうさぎの喘ギを旗揚げ、主に劇作、演出を担当し、ウイングカップ8で優秀賞を授賞。大学卒業後のコロナ禍では配信であることを逆手に取った作品を発表し高い評価を得る。2022年度よりウイングフィールドスタッフ。

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