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「蠟燭をひっくり返して、踊る」

2023年1月28日、大阪はとても寒かった。
北海道と変わらないほど寒かったらしい。
北海道から来た劇団が言うのだから間違いない。
札幌を拠点とするポケット企画の『おきて』を観劇した。

舞台は真っ暗闇から始まる。
下手奥に設置された白い布(天井から、ちょうど天の川のような形で垂れ下がっている)の奥で、ほのかに照らされた身体が透けて見える。身体は蠢き、徐々に形をとって踊りのようになっていき、いいところで照明が消える。

次に上手前が照らされて、物語本編が始まった。
クルマに見立てた白い箱に、男性2人が並んで座っている。やや不思議な単語のラリーから始まり、会話に発展していく様は、小津安二郎の映画を想起した。(もっともこの後、会話劇の要素が増していくのだが、コミュニケーションの繊細な温度感が直に感じられるのは小劇場の醍醐味だと思った。)
時折、後部座席に寝た白い子どもが起きて、仕草や言葉を差し挟んでくる。アレはいったい何者なのか? 2人の大人から知覚されているようで、されていない。

「タイムスリップ」していくつか過去の回想、あるいは未来の出来事を挟みつつ、やがてクルマはおじいさんの家へとたどり着いた。2人の男性の父親にして、後部座席の子ども=「うき」のおじいさん。彼のお葬式のために移動していたらしい。
そこから、おじいさんの過去とか、親戚登場とか、ハートフル家族物語の展開になるかと思いきや、予想外の方向へストーリーは動いていく。

中心人物になっていくのは、途中「タイムスリップ」に出てきたダンスの先生。
ある日の練習直前に、生徒2人から「ダンスを辞める」と告げられる。「踊ることが嫌いになったわけでも、先生のことを不満に思っているわけでもない」けれど、ダンスを辞める。曰く「就職しようと思ってて。行けるところまではって考えてたんですけど、大学卒業して、ダンス続けてたら、世の中一般的には、俺はダンサーじゃなくて、フリーターになるんです」「僕もこのままじゃやばいなって思って」とのことだった。
2人の申し出を受けた先生は、表向き明るく振る舞いながらも、理解と戸惑いとを感じている。そのまま取材を受けることになり、戸惑いの中で、ダンスとの出会いや自身の気持ちについて、自身と対話し気持ちを確かめるように、一言一言インタビューに答えていく。このダンスの先生こそ、大人になった「うき」だった。

以降、ダンスを続けるか、続けないか。また続けるなら、どのような形で続けるのか。うき自身もその問いの中に身を置いていくことになる。いくつかのトピックが盛り込まれた『おきて』の中で、私にとってはこのトピックが、一番重要なものに思えた。



続けることは、怖い。
ダンスやバンドや演劇や、その他諸々表現系の生き方には、何ものにも代えがたい歓びがある。だから「続けたい」気持ちを持つことは、難しいことではない。
一方で、ぶっちゃけ収入とか、社会的な地位とかで言えば、苦しい場合が少なくない。先立つものが無ければ生きていけない世の中、今のまま生涯続けるかと問われれば、正直「賢明」とは言い難いのも確かなのだ。少なくとも私にはそう思える。20代も後半に差し掛かると今後の人生が生々しく見えて、「折り合い」なんて言葉が何をするにも付きまとい始める。

「就職を機にダンスを辞める」と決めた彼の言葉も、その結論に至る迷いも、痛いほど身に染みた。うきがそれを拒まなかったのも、きっと理解できたからだろう。「続けたいか」の意思問題だけではなく、「続けられるのか」という現実問題があって、その狭間で表現者たちは日々選択を迫られている。
そのひとつの転換点というか、決断の旬みたいなものが、彼にとっては「就職」だった。身も蓋も無く言えば、辞めるキッカケ。自分の決断を自分で許すための、旬。私の友人にも就活生のダンサーがいて、迫る「期限」を前にどう表現と付き合っていくのか、思案しているらしい。

一方うきには、「期限」が無い。大学卒業後は、結婚か、子の誕生か、親の介護や他界か、価値観を転回させるクラスの大災害(コロナ禍はそのひとつだろう)か、状況の方から決断を迫ってくるような「旬」はそれぐらいしか訪れない。実に自由で、故に怖い。続けるにも、辞めるにも、路線を変えて進むにも、決断の契機を自分で作らなくてはならない。意思に委ねられる部分が大きいからこそ、ひとつひとつの決断にプレッシャーが掛かる。妙な言い方だが、自分の決断を自分で許せる自信が無い。だからきっと、どこか違和感を抱えていても、決断を有耶無耶にしてしまうのかもしれない。私には、インタビューに答えるうきの口調が、辞めた2人を恨んでいるようには聞こえなかった。どころか、どこか羨んでいるようにさえ聞こえた。決断(辞める決断とは限らない)のキッカケがあった2人に、置いていかれた気さえしたのではなかろうか。そんなうきもやがて、ある決断をする。

「決める」という行為は、疲れる。
膨大なエネルギーを要する。
始める人。辞める人。身近にちょうどそんな人たちが多くいる時期に、『おきて』の観劇日を迎えた。
「決める」ことによって、数々の可能性を手にしもするし、摘み取りもする。
摘み取ったはずの可能性が巡り巡って目の前に戻ってきたりすることもある。
過去の自分に心から感謝することもあれば、悔やみきれぬ後悔をすることもある。
裁判のシーンにあったように、自分自身を許せずに「有罪」の判決を下し、背負って生きねばならぬこともある。
「決める」という行為はその瞬間に完結するものではなく、その後の過ごし方も含めて初めて、決断の質が定まってくるのではないか。「辞める(または、しないという選択)」と「逃げる」の線引きも、あるいはそんなところにあるのかもしれない。

「決める」ことこそ生きること、なのではないか。
そしてそれが、「起きる」ということではないか。
新しい明日を掴むということではないか。

幾多の作品で「朝」は、「夜はいつまでも続かない、やがて朝が来るよ」というように、自動的に来るもののニュアンスで語られる。しかし『おきて』では、「朝は勝手にこない」。「楽しい、喜びの音楽と一緒にやってくる」「それは、希望の朝だからね。絶望はどこにもないんだよ」と続く。
決めないと、起きないと、朝は来ない。
決めれば、起きれば、朝は来る。
その先には希望が待っている。
これは厳しいようでいて、希望に満ちていて、「決める」こと、決めた後の時間を過ごすことを肯定してくれているように感じる。「辞める」という選択をしても、「形を変える」という選択をしても、その先にある未来に目覚めることができる。終幕間近の子どもうき・大人うきの対話は、まさにその最中にあった。

また、決断にあたって「自分の心に素直になること」が尊ばれがちだが、『おきて』はその限りではない。「無理はないか」という、前述の現実問題。熱意、衝動、欲する心、それだけでは、ないがしろにしてはいけないものをないがしろにしてしまう。そこに触れていることに、リアリティがあった。後ろ向きに聞こえるかもしれないが、この問題は確かに存在しているのだ。
「蠟燭を反対にするとたちまち火は強くなって寿命を短くします。それを防ぐためには、まぁ、また逆さまにすればいいんでしょうけど。つまり身体のことを考えようということです」
終盤、蝋燭を持って登場したおじいさんはそう言葉を発する。
ここで言う「身体」とは、現実性を象徴するものだと、私は捉えた。素直に自分らしく、かつ無理なく肩の力を抜いて、生きること。身体のことを考えて、蠟燭をひっくり返すということ。
生命を燃やすということについて、生者は死者に何も言うことができない。ある種の聖域から、おじいさんは伝えかけてきた。

「決める」ことを続けなければならない。
「決める」にあたって、身体のことを考えなければならない。すなわち、生命の。
それが、生きるうえでの「掟」でもあるのではないだろうか。

果たして自分は「起きて」いるだろうか。まだ寝ぼけているような気がして、「起きて」という呼び掛けが、私自身への呼び掛けのように届いた。

座席に配布されていたパンフレットの裏面に「外から観たかったですけど、僕も中にいます。さらに言うと、皆さんにも中にいて欲しい瞬間があります」と書かれていたが、私もまんまと「中」にいてしまった。そんなうちに、上演時間の80分は過ぎた。



「レビューを書く」という前提での観劇は初めての体験だった。ふと気づいてみれば、ここまで全神経を集中して目の前の人間を見つめることなど、日常生活では極めて稀なことだ。観劇という体験、そこに流れる物語を通して、観客は「人」の存在を、そこに反射する自分自身の心の動きを、見つめている。

美術セットとか、照明とか、音響とか、衣裳、小道具、その他諸々、公演を成立させるためのモノはあるけれど、最も素朴に、演劇に触れる体験そのものを運ぶのに、大きなトラックは必要ない。

チラシに書かれた紹介文がふと、脳裏をよぎる。
”「ポケットに入れて持ち運べる演劇」をテーマに札幌で活動中”
なるほど、演劇は、持ち運べる。

 

レビュアー プロフィール

佐倉仁(さくらじん)
劇団壱劇屋 劇団員

兵庫県出身。兵庫県立ピッコロ演劇学校修了後、2022年春の新劇団員オーディションで壱劇屋に入団。出演と、公演をつくるための制作関係にも一部関与しながら活動している。劇場の構造美に魅せられた劇場フェチ。文章を読むのも書くのも好き。俳優活動に軸足を置きながら、幅広く舞台芸術に携わっていきたいと思っている。

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