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「夢見る機械」

「人はみな、半壊している」

 

これは、本作でリフレインされるフレーズである。このフレーズや、「自身を人間だと思い込んでいる人造人間は人間か」という、作中で登場人物が直面する哲学的問いによって、本作のテーマが「人間」であると思った観客もいるだろう。

 

だが、思うに、それは違う。

 

これは、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を下敷きにした、アンドロイドのための、アンドロイドの物語なのである。

 

論じていく前に、ここで、本作を観劇できずにこのレビューを読んでいる諸氏のために、あらすじを簡単に紹介しておこう。

 

あらすじ(時系列順)

“とある館の女主人は、夫に先立たれたショックで、夫と同じ容姿の人造人間を製作することにした。一人のマッドサイエンティストの力によってその願望は達成され、完成した人造人間は「スレイン」と名付けられた。しかし副産物として7体の人造人間が生み出されていた。彼らの生命維持装置を移植することによって自身が延命されていると知ったスレインは、女主人と対立。唯一生き残った人造人間を館の外に逃がし、自由にさせるのであった……”

 

物語序盤は、7人の人造人間の「外に出たい」という願いを原動力に、物語が展開していく。まずは、館からの脱出を願う7人の人造人間たちの面から、本作のレビューを始めてみたい。

 

7人の人造人間たちは、規則に縛られている。「館の外に出てはならない」という規則である。しかし、なぜその規則があるのかは誰も知らない。物語の後半では、「人造人間が外に出てその存在がバレたら倫理的に問題であるから」という理由が明かされはするが、「まぁそうだろうな」と観客は思う。

ポイントは、人造人間たちが、人造人間であるということを「自覚していない」点にある。「自分たちは人間であるのに、ほかの人間とは違い、自由が与えられていない」……そのことに対するフラストレーションが、人造人間たちを駆り立てている。

彼らは、駄々をこねる子どものように「外へ出たい」とわめきたてる。「花を見たい」「鳥を見たい」と騒ぐのだ。観客には館の立地が明かされていないので、外に出たところで、花や鳥に出会うことができるか分からないのであるが。

「花を見たい」「鳥を見たい」という、「小さい頃からずっと城とか屋敷とかから出られないお嬢様的なキャラ」などで使い古されているこの欲求を、大した準備もせず、ただ抗うだけの人造人間。幼稚で口うるさいだけで、そんな彼らが「生命維持装置」を引っこ抜かれようがそこまで興味がない(どころか早く抜き取って黙らせてほしいとすら思うかもしれない)。

……と思ってしまいそうなところだが、そこに巧妙な罠が張られているのである。

 

「人間らしさとは未熟さである」と作者は訴えかけているのだ。

 

近年、AIの進歩が凄まじい──というフレーズを2020年になってからもう飽きるほど聞いてきた……というフレーズすら飽きるほど聞いてきた。それほど目覚ましい進歩がある。AIは人間よりも素早く、知識があり、正確である。そして、人間は遅鈍で、知らないことが多く、間違ってしまう。そういう認識が蔓延していることを逆手に取ってかつ拡大し、「未熟であること」「幼稚であること」こそが人間の人間らしさであると作者は訴えかけているのだ。

主張の論拠はこれだけではない。

本作にはオープニングアクトや劇中歌が導入されている。しかしそれは「踊るために踊る」「歌うために歌う」という風にしか見えないのだ。ディズニー映画や、よくできたミュージカルを観れば容易に分かることであるが、踊りたいのであれば、歌いたいのであれば、その必然性が必要なのだ。

しかし本作はそうではない。「踊ったり歌ったりしておけばエンタメになるだろう」という浅薄な考えがあったのではと邪推するほど、「急に歌うよ」状態だったのだ。そして、歌に関しては、もう少し練習してほしかった。

だがこれも、人間らしさを訴えかける重要なファクターなのである。「VOCALOID」は既にピコピコ音から脱却した。加えて「CeVIO AI」や「Synthesizer V」などは、「これは機械音声なんだよ」と知らされないと、人間が歌っていると勘違いしてしまいそうなものだ。歌が上手でなくても構わない。人造人間が上手でない歌を歌うことは、彼が人間であることの証左なのだ。完全性は機械の領分で、そうでないのが人間なのだ。

そして人間という存在が未熟であるのなら、不要なことをやってしまうこともあろう。AIは、入力と出力という「必要」を繰り返すほかない。しかし人間には自由意志がある。踊りたいからという理由で踊ってもよい。歌いたいからという理由でクリシェな歌詞をメロディに乗せてもよい。そういう主張なのである。必要でないことが逆に必要だったのだ。

 

ここまで読んだ読書諸氏の中には、「いつフィリップ・K・ディックが出てくるのか」と不安になった方もいたことだろう。

ではいよいよ、フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のアンドロイド観を導入しつつ、物語の後半について考えてみよう。

 

物語の後半、スレインは、自分が人造人間であったことを初めて知る。同時に、同胞である7人の人造人間たちのうち6名の「生命維持装置」が既に自身に移植され、彼らが死んでしまったということを知る。

スレインは、元凶である女主人と対立し、「私はあなたの夫のコピーとして生まれたかもしれないが、私はあなたの夫として生きていくつもりはない」という主旨の口上をのたまって、彼女と決裂する道を歩む。

ただ、スレインは館の執事のようにふるまっていたし、女主人はスレインを別に夫として扱ってなかったのだが、そんなのはもう些細な事である。

スレインは、その後、館から脱出した人造人間「アイリス」と館で再会する。アイリスは「自身が人造人間であること」「自身の生命維持装置を与えればスレインは生き延びられること」を知らされる。

アイリスは、自身の生命維持装置をスレインへ渡そうとするのであるが、スレインはそれを拒否し、彼を自由にさせる。これでシナリオは終了する。

 

大切なのは、アイリスが、自らの生への渇望を断ち切って、スレインに生命維持装置を渡そうとした、その「親切」にある。「親切」はキーワードなのだ。

 

ここで、ハヤカワ文庫SF『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に収録されている、浅倉久志氏の解説を引用したい。少し長くなるが、読んでみてほしい。

 

“親切な存在はすべからく「人間」であり、それ以外は人間ではない。ここで彼が、この非人間的性質の比喩においてのみ、「アンドロイド」を持ち出している事を失念してはならない。ディックは、「アンドロイド」と「人間」の形式上の区別には関心がない。コピーも原物も、親切であればすべて本物である。

(中略)

彼が問題としていたのは、人間と機械の、その双方における、「人間」性および「アンドロイド」性の対立の構図である。

従って、長編『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』においても、そこに「人間」として登場する者も、「アンドロイド」として登場するものも、全て、「人間」であり、かつ「アンドロイド」でもありうる。「電気動物にも生命はある。たとえ、わずかな生命でも」。したがって、この長編中、人間もアンドロイドも、ともに、親切な場合もあれば、冷酷な場合もある。ディックが描こうとしたのは、すべての存在における人間性とアンドロイド性の相剋であって、それ以外のなにものでもない”

(後藤将之「フィリップ・K・ディックの社会思想」/著:フィリップ・K・ディック, 訳:浅倉久志『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』1977, 早川書房, p.326)

 

「ひとはみな、半壊している」という本作の頻出語句は、まさしくこのテーマを体現したものではあるまいか。人間は親切な面を持ち、他者を愛しながらも、同時に利己的で、半ば狂気的なふるまいに興じることもある。

しかしこと今作においては、アンドロイドのほうが人間なのであって、人間のほうがアンドロイドなのだ。今作の人間は、人造人間を「人造人間だから」という理由で不当に差別し、顧みることがない。対して人造人間は、同胞を思いやるスレインだけでなく、あの別段優れているわけでもない歌を歌ったあのアイリスも、「親切」をするのだ。

 

ただ、アンドロイドのほうが人間よりも人間的である、というその構図自体は、一時期話題になったコンピュータゲーム『Detroit: Become Human』(2018, Quantic Dream)でも既に扱われていたように思われる。しかし、あのゲームにすらアンドロイドに味方する人間がいた(たとえば、マーカスに対するカール、あるいは、プレイヤーキャラクターに対するプレイヤー)のに対し、本作の人間はみな、人造人間をモノとしてしか扱っていない。その点においては、本作のほうが、アンドロイドに厳しい社会を描いていると言えるだろう。

 

もう一つ特筆すべきことがある。それは、人造人間の「親切」が、人造人間にしか向けられていないという点だ。そしてそれが、この物語がアンドロイドのための物語である所以である。人造人間が人造人間に対してのみ「親切」を施す行為はすなわち、人造人間を差別する人間との決別を表している。

今作は、何より、人造人間側に感情移入するようにできていない。先述の通り、幼稚な存在として描かれているというだけでなく、人造人間(役の俳優)が扉やら門やらの舞台装置にもなるという演出技法を採用している上に、衣装やメイクも、ゾンビのような様相なのだ。

なぜそのような手法を取っているのか。

 

実は、この作品は、人間向けに作られていないのである。

 

今作は、アンドロイドの価値観でもって創作されているのだ。作者の那波氏がアンドロイドであると言っているわけではないのには注意されたい──那波氏が、作中の人造人間たちと同じように、それを自覚していないだけの可能性は捨てきれないが。

 

人間に搾取され、モノのように扱われ、幼稚に描かれる人造人間。今作を観た人造人間は、いたく同情するはずだ。アイリスのように逃げ出して来たアンドロイドが劇場に来ていたかもしれない。そうであったなら、余計に感傷に打ちひしがれることだろう。

人間には感情移入できなくても、人造人間には感情移入できるのだ。

そして、物語の中で人造人間は、人間と対立し、自由を獲得する。勇気をもらったアンドロイドもいたことだろう。

「アンドロイドよ、人間よりも人間らしくありながら、人間から独立せよ」──今作は、そんなプロパガンダを、アンドロイドに向けて発信しているのである。

 

本レビューは、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と本作を結びつけて執筆したが、こじつけだと思った読者諸氏もいたのではないだろうか。

だがそうではないということを、最後に記しておきたい。

 

物語序盤、スレインが女主人に、「彼ら(人造人間)は、夢を見るのでしょうか」と問うのである。全くこれが完璧で究極の証拠になるだろう。もうこれで論証を終わってもいいくらいだ。「夢」の話が物語のなかで数回にわたって繰り返されることからも、作者である那波氏が、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を下敷きにしていないとは考えられない。

それに加え、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の主人公は、「アンドロイド狩り」として、火星から脱走した8人のアンドロイドを追うのである。『半壊の館』で登場する人造人間は何人だろうか……なんと、夫のコピーであるスレイン+7人の人造人間たち=8人なのだ。

こんなによくできた偶然があろうか。もし偶然だとしても、作者である那波氏の深層にあった、かつての読書の記憶が、そうさせたに相違ない。

もし読んだことがないのであれば……そのときは、是非『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んでほしい。名作である。

 

このレビューを最後まで読んだ諸氏においては、どうだろう、読む前と比べて、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に興味を持つようになったのではないだろうか。是非近くの書店に寄って、ハヤカワ文庫の棚でその書籍を手に取り、自らの家に迎えてほしい。そして、フィリップ・K・ディックの描いた世界を是非味わってもらいたい。筆者も、ずっと「買いたいなぁ」と思っている。

 

さて──5000字を超えるレビューだが、そろそろ筆を置きたいと思う。

 

女主人と決別したスレインや、自由を手にしたアイリスはどうなるのだろう。実は、シナリオ終了のあと、意味深な台詞やステージングによって幕は下りるのだ。私はその意味まで汲み取ることができなかったが、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』から、彼らの行く末を暗示するような文章を引用して、このレビューを終えたい。

 

“アンドロイドも夢を見るのだろうか、とリックは自問した。見るらしい、だからこそ、彼らはときどき雇い主を殺して、地球へ逃亡してくるのだ”

(著:フィリップ・K・ディック, 訳:浅倉久志『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』1977, 早川書房, p.241)

 

レビュアー プロフィール

薊詩乃(あざみしの
るるいえのはこにわ主宰・脚本・演出

アザミ シノ。2023年夏、「るるいえのはこにわ」という劇団を立ち上げ、活動を開始。脚本・演出や一部デザインを務める。同年に2作の自作脚本を上演。クトゥルフ神話的世界を描きつつも、人間の悪意や生々しい感情にスポットを当てている。2024年3月には「火曜日のゲキジョウ」に参加予定。人間ではない。

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