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「サイトスペキュラティブ」

劇場という場所は、本当に不思議な空間である。つくり手と観客の想像力で、どのような場所にもなってしまう。立ち飲み居酒屋の一角。港の使われていない倉庫。役場の会議室。そしてもちろん、劇場にだって。

 

過疎化の進む田舎町に突如現れた最新設備搭載の市民劇場。柿落とし前の劇場説明会を任された“トバシ”は、先輩の”関さん”、上京して演劇を続ける高校演劇部の同期“ホクロ”と一緒に簡単な実演を交えた説明会を計画し、本番に向けて稽古を重ねていく中で、演劇の楽しさを思い出すと同時に、現在演劇が置かれている社会的立場と、そのような状況の中でこの廃れゆく町に公共劇場が出来る意味を考えるようになる……。このようにあらすじを書くと、いかにも社会派な作風の印象を受けるかもしれないが、sutoαの『悪態・Act・かしまし・縁』は決してそんな堅っ苦しい作品ではない。随所に笑いどころを散りばめ、三人のキャラクターも立っており、話の筋も一本道で、エンターテインメントとして非常に楽しい。最後には実際に実演を交えた説明会を観客に向かって行ってくれる。演劇ならではのメタ構造を生かした構成。思わずこんな気持ちになる、「私たちも演劇をやりたい、この劇場で!」。

……劇場。そう問題はこの劇場が、ここではないということなのだ。ここ、ウイングフィールドではない。ウイングフィールドと同じ形をした、別の虚構の劇場でもない。ウイングフィールドより収容人数も多く設備も新しいはるかに大きな公共劇場。この作品では、劇場をありがちなサイトスペシフィックな扱いなどはしない。そこにこの作品の特異点があると言って良いだろう。ウイングフィールドをより大きな劇場として扱う。この試みがこの作品にもたらす意味について考えてみたい。まず考えられるのは、虚構の中のはるかに大きな劇場と現実の劇場という対立が、作品の中で語られる演劇の二つの側面、つまり、演劇という芸術の持つ楽しさと、それを生業にしたくてもそう上手くはいかずにバイトを掛け持ちする日々の現実という対立のメタファーとして機能しているのではないかという点である。ウイングフィールドにはるかにより大きな劇場をレイアウトする。そうすることで生じる虚しさのようなものがこの作品の問いかけているものをよりソリッドにしている。

このようにこの試みについて考えていると、避けることのできない問いが浮かび上がってくる。観客の存在である。ウイングフィールドを、ウイングフィールドとは全く違う劇場として扱う。それも虚実のレベルでなくマテリアルなレベルで。そのような試みでなお、唯一共通する存在として、観客がある。この時、観客である私はどのような状態になっているのか。私はいつの間にか、物理的に書き換わってしまった世界に放り込まれてしまっている。そして、そこで、存在しない劇場で演劇をしたいと思わせられている。このことから導き出されるのは、私もまた、世界を書き換えるしかないということである。つまり、こういうことだ。この作品は、世界をフィクショナルなレベルに留まらず、マテリアルなレベルで書き換えようという試みを観客に体験させることで、現実と虚構の両方に身を置く観客に、現実の変更可能性を抱かせようとしているのではないかということである。先に述べたように、本作はあくまでエンターテインメントとしての成立を優先しており、公共と芸術の関係性や、現代の日本社会が抱える構造的な問題に深くは立ち入らない。しかしながら、この作品が抱かせる感情や欲望は私にそのような問題と向き合う必然性をもたらすのだ。

 

劇場という場所は、本当に不思議な空間である。つくり手と観客の想像力で、どのような場所でもなってしまう。立ち飲み居酒屋の一角。港の使われていない倉庫。役場の会議室。そしてもちろん、劇場でだって。

 

レビュアー プロフィール

泉宗良(いずみそら
うさぎの喘ギ ウイングフィールドスタッフ

1996年生まれ。大学の演劇サークル入部を機に演劇を始める。在学中にうさぎの喘ギを旗揚げ、主に劇作、演出を担当し、ウイングカップ8で優秀賞を授賞。大学卒業後のコロナ禍では配信であることを逆手に取った作品を発表し高い評価を得る。2022年度よりウイングフィールドスタッフ。

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