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「タトゥーの物質性」

大学生の頃。タトゥーを入れたいと思っていた。
 襟首にバーコードを入れ、生年月日のロット番号を入れる。自分を商品化すること。管理化すること。交換可能にすること。
あえて自分の手で行うこと。そんな憧れがあった。タトゥーは拡張するものであり、貧しくするものである。穴を開けそこにインクを注入し、自分に価値をつける。上演を見てそんなことを思い出した。

 よるべ『深呼吸』は私にはよくわからない上演だった。俳優は裏のあるような話し方をする。この作品は何かを言うために何かを隠してる。そんな気にさせるのである。
 この不明瞭な世界に私なりのメタファーを作らざるを得ない。ある一点を基準にした価値体系の生成。このタトゥー。この自分の依拠する絶対の記号。ここを出発点とする。登場人物の一人である神保の様に、目の前の出来事を私の基準にとって「必要か」「不必要か」の二択に還元して応答しなければならない。身を守り、精神の均衡を保つために。
 私たちの生きる社会は底割れしている。掘っても理由なんてないのだから、そもそもこの穴掘りはやめなければならない。そこに何かを埋めてそれを底としなければならない。それが社会の成立理由になる。生きる事の判断材料としてのゼロ地点。
 価値体系を生み出すこと、と、それに飲み込まれていくこと。

 私は『深呼吸』を分からないなりに、ストーリーとして読み解き、二元論に基づいて整理した。浮かび上がるのは一つの他者論である。神保的な勢力=他者に同一性を要求する者(神保、鈴木)と木島的な勢力=同一性から逃れ得る者たち(前田、木島、上地)の、不知の他者をどう処遇するかの戦いである。
 神保たちは、社会の不変性への指向を表してるようだ。他者に像を押し付けること、他人を飲み込む事で自己の同一性を延命させ、自己像に擬似的な普遍性を獲得させる。
 この指向性は観客である私にも重ねられる。水槽がそのメカニズムを担う。劇場中央の水槽には何も入っていない。それ故に、この水槽の存在意義を探してしまう。その中に何かを泳がしてしまう。意味を充当してしまう。水槽に投げ込まれた石を人だと思ってしまう。水槽は社会である。
 また、この時、水槽−社会−劇場であり、観客−神保である。観客は俳優の存在や仕草に意味や役割を充当しようとするとき、この二つの類型構造が成立する。この劇では神保が父的なrulerとして振る舞う。

 一方の木島は、過去からのトラウマ的な一点に未来は規定される、と自分を思い込み規定する前田を解放してやる。木島は転勤族である。自分の人生を習い事を転々とする感じと例える木島は、常に存在が多文脈化されることを知っている。故に、前田の悩む何処にも行けなさなどとるに足らないことを示し、個人に要求される同一性の欺瞞を暴く。しかし、その力能の代償としてか、常に自己喪失感を抱える。
 常に存在が引っ越される危機を感じる木島だが、やっと自己の同一性を保てたとしても、こう言うのだ、

  木島「魚と、ようやく対面できるのに、ガラス一枚で対面してる方が、なんか魚のことがわからない気がする」


 社会−水槽を生きる私たちは魚である。同一性の獲得と人を色眼鏡で見ることは不可分である。その結論として、

  木島「水族館は寂しい」

そして、

  ト書き

  プロジェクターで次の文字がうつされる。
  「木島は、その3年後、永逝する」

見る/見られる水槽からの脱出。木島はここで情報になる。なぜなら死体がないからだ。
 プロジェクターから劇場−水槽に刻まれたタトゥーとなって、存在は多分脈でしかないこと、オリジナルなどないことのドグマになる。ドグマとしてのタトゥー。それはある意味では手に入れたかった同一性。
 木島は、電話線の向こうから、コミュニケーションは常に失敗し続けていることを上地に伝える。絶対の同一性などなく、見る/見られる像は、幾重にもズレているかもしれない。そのズレの一つが飲み込んでしまった他者の「本当」かもしれない。見る/見られる事の絶えざる歪みに住うことが、他者を殲滅しない作法なのだ。
 『深呼吸』は最後、鈴木が宛先不明の公衆電話を手に取り終わる。彼もそのうち歪みに住う事を感じさせる。

 しかし、他者は呼びかけ続け、ズレ続ける。
 どの声にも惑わされず、「本当」の声を聞かなければならないとされるのは一つの地獄である。それに絶えられず現状追認として他者の存在から閉じたのが神保ではないか? そして、その電話にでれば結局、ある価値基準に基づいて残りの他者を殲滅しなければならない。悩みが一つになると言うのはそう言うことじゃないか? 木島の持つ、人を社会に追い返してしまう力が問題とされてない。自分がドグマになってしまったように。木島は神保の変奏なのではないか。
 だが、こう考えると整理できないシーンが一つある。

  ト書き
 
  海辺。木島と前田がいる。

 二人が死んだとされた後、電話越しでなく対面するシーンである。木島の死体は無かった。前田の死体も無い。なのに二人は登場する。実際的な破壊された死体ではない。では、この二人はなんなのか?
 これを電話線の向こうの冥界(=情報の世界。ズレ続け生まれ続ける他者)などではなく、情報性の無くなった身体と捉えてみる。ただの死体。他者を情報として扱う誤解可能性の他者論では知覚できない、ただの死体=物質的な他者。
 ここでは、石も俳優も観客も劇場も水槽も全て情報のない物質、全て死体である。二人の座る、この海辺のデッドスペース。有効に使えない空間。そこでは価値体系の侵略戦争は起きない。

 これまで劇場にいる観客は石や水槽を見立ててしまっていた。神保が石に「きれいな石」と同一性を押し付けてしまう事。「オタマジャクシみたい」「太ったネズミみたい」と多分脈化する事。それとは無関係に、向こうにただ死んだ石があると言う事。私はこの作品の見立てさせる誘惑に捕まっていた。だが、もう一つの誘惑があった。死体を見るように、石そのものを見るように、人を見る事。関わる事。ここに『深呼吸』のもう一つの他者論が走っている。これは、より神保的なものと相入れない作法である。
 
  神保「でも今は黙っとこうね。普通もいっぱいあるから。今。普通だから」
  鈴木「……」
  神保「息止めて、頑張って」

 近く、人の呼気。タトゥーを触る。その感触。

 

レビュアー プロフィール

吉田凪詐(よしだなぎさ)
コトリ会議 俳優

山口県出身。1995年生まれ。主に俳優として活動。劇団で遠方に行ける事が楽しい。演劇を作る事が楽しい。上演する事も同じくらい楽しい。演劇は人に言えるほどあまり見ていない。本が欲しい。NUMBER GIRLが好き。

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