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「クズと本懐」

コンクリート風にも見える、補修だらけの灰色の壁。
いかにも簡易的に組み上げたような卓袱台。
開演を待つ舞台美術を見ただけで、なんだか不穏な感じがした。
この家では先日、おかんが病気で亡くなり、おとんは抜け殻のようになって、家のことは兄・もんじろうが取り仕切っているらしい。弟・コータは3年以上、自室に引きこもったままだ。そこへ、お金にだらしない土方のやっしゃんや怪しいビジネスを手掛けるキム、性にだらしない元カノ・さながお線香を上げに押しかけてくる。

もんじろうは金を無心してくるやっしゃんを諭すが、結局金を貸してしまう。さなを冷たい態度であしらうも、なんだかんだヨリを戻してしまう。コータはやがてキムの元で怪しいビジネスの手伝いを始め、キムは過去のトラウマでさながいるこの家に寄り付かない。酒の勢いともんじろうのある発言がきっかけでさなとコータは関係を持ち、相関図は余計にこじれていく。ほぼ全員、ちゃんとクズ。継ぎ接ぎだらけの不穏な部屋は、崩壊した関係、その根っこにある心の綻びを映し出しているかのようだ。

教師でもあるもんじろうは、自他を諭し律しながら、正しくあろう/あらせようとする。「よくあるあかんやつやん」と警鐘を鳴らし、「いつまでも出来る仕事じゃない」「それがほんまにやりたいことか」と問いかけ、「逃げって言葉を都合よく使うな」と甘えを許さない。いずれも相手のことを思っての言動だ。しかし周囲の人間は己の欲を優先させ、もんじろう自身も結局、欲に飲み込まれていってしまう。

先ほど「だらしない」と表現したが、果たして「悪」であろうか。きっとそうではない。己の欲望に忠実なだけだ。やっしゃんやキムが金儲けに執着するのも、さなが性に奔放なのも、根底に欠乏や寂しさがあって、それを埋めるための手段に過ぎない。

もう一人、もんじろうにしか見えない登場人物がいる。幽霊となったおかんだ。「天国から来た」という彼女は強烈なキャラをいかんなく発揮して、物語を引っ搔き回していく。「男と女や、色々なくてどうすんの」「年齢的にしゃーない」「お酒に強かったらもっとお持ち帰りできたのに」など、劇中に登場するあらゆる人物の弱さや過ちを認めていく。もんじろうを「間違いを正そうと否定する」人物だとすれば、おかんは「欲や弱さを肯定する」存在だ。人間は間違ってしまう生き物。そう包み込んでくれるおかんは、もういない。
だからきっと、みんな己の欲と弱さとに醜悪さを自覚しながらも、そこから抜け出る術を知らず、同じ過ちを繰り返してしまう。やっしゃんはいつまでもお金を借りにくるし、さなは浮気を繰り返す。もんじろうだってさなとヨリを戻してしまうし、自他に「正しさ」を求めることをやめられない。おとんはおとんで喪失感と無力感に時間が止まった状態のままだ。

その中で唯一、止まっても繰り返してもいない人物がいた。コータだ。ストーリー前半で、彼は何の変化も見せぬまま、引きこもり状態を続けていた。「得体の知れぬもの」「触れてはいけないもの」のように扱われ、誰にも心を開かない。周囲は様々な言葉をかけるが、どれもコータには届かない。キムの放った「俺も引きこもってたことあるから大丈夫や」という言葉のいかに空虚なことか。他人の悩みをはかるべからず、問題の深刻さは人によって違い、自身の問題には自身で向き合う他にない。
この葛藤が、コータの内心では行なわれていた。やがてコータは自室から出て、就職し、性経験を済ませ、日に日に「大人」になっていく。唯一、自分自身の問題に逃げずに立ち向かった人物と言ってもいいかもしれない。

終盤突如として、コータがもんじろうを撲殺する。凶器は幼少期に2人で遊んだ、思い出のゲーム機。支配からの卒業か?「正しさ」の死か?この展開にやや驚愕したが、コータが前に進むために必要な清算だった。
直後、照明が赤に染まり、起き上がってもんじろうがコータをかなぐり倒す。その勢いのまま部屋のセットを次々と物理的になぎ倒していく。これはきっと精神的情景だ。荒れるもんじろうを尻目に、友人たちがそれぞれの「幸せな今(すなわち、もんじろう亡き後の未来)」を語っていく。やっしゃんは金持ちになり、さなは誰の子かわからない子を出産し、コータは順調に働いておとんと旅行に行ったという。みんな抱えるものがありつつも充実して晴れがましい顔で、一層苛まれたもんじろうは狂ったように目に入るもの全てを破壊し尽くす。解放された彼はついにおかんを刺す。白いワンピースを着たおかんと、赤い服に身を包んだもんじろう。この頃には照明は強い白になっている。他の登場人物はセットの下敷きになって倒れており、一面真っ白の中に、もんじろう一人真っ赤。ここにいる、ここで生きていると存在を主張するかのように鮮やかに映った。

ラストシーンでおとんが、コータとの日々をもんじろうの仏前に報告する。「ごめん」を繰り返していた父が、少しは明るくなったようだ。自分とコータしかいなくなり、覚悟を取り戻したからか。あるいは別の理由があるのか。きっかけは分からないが、とにかく開き直って前向きな面持ちだ。

正しくあろうとするもんじろうが、結局は一番間違っていたのか?
正しくあろうとするがために、生き辛くなってしまう経験。もんじろうと同じように、私にも覚えがある。悶々として、生真面目さに辟易としつつも、そこから逃れることができない。欲望はあるのに、自分を満たすことができない。素直な人を羨ましく思うことも幾度となくある。

「所詮この世は色と欲、天国地獄はこの世にあり」。
本作『天使は毘沙門天に射貫かれる』が生まれるきっかけになった言葉だそうだ。
欲を飼って生きるということ。「所詮」という開き直りと容認。天国も地獄も呼ぶけれども、結局それが「楽しく生きる」ということなのかもしれない。とは言いつつ素直になれないものだけれど、度々、おかんの「もうちょっとラフに生きたら?」という言葉を思い出したいと思う。

 

レビュアー プロフィール

佐倉仁(さくらじん
劇団壱劇屋 劇団員

兵庫県出身。兵庫県立ピッコロ演劇学校修了後、2022年春の新劇団員オーディションで壱劇屋に入団。出演と、公演をつくるための制作関係にも一部関与しながら活動している。劇場の構造美に魅せられた劇場フェチ。文章を読むのも書くのも好き。俳優活動に軸足を置きながら、幅広く舞台芸術に携わっていきたいと思っている。

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