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「普通」を生きる息苦しさ

「深呼吸」というタイトルとは裏腹に息苦しさを感じる劇でした。

劇場に入り、最初に感じたのは舞台の使い方の面白さでした。舞台と客席の配置を90度回転させ、元の舞台よりも役者が動ける距離が広がるレイアウトで、ウイングフィールドでは初めて見る使い方だったので新鮮さを感じました。客席に着いた瞬間視界の真正面に飛び込んでくる大小様々な水槽にも、これから始まる劇がどんなものか興味を惹きつけられました。

物語の始まりは、ザクザクと土を掘る音でした。音響がリアルで一瞬、本当にそこで土を掘っているのかと思うほどでした。薄暗い照明と、リアルな音響で造られた世界観に一気に引き込まれました。しかし、そこからの物語はいい意味で際立った山場がない、穏やかな会話で進んで行きました。一方では、山で土を掘る男とその傍の男。また一方では、中学時代の友達である男女2人。それぞれの異なる時間の間で紡がれる一対一の会話は、ただただ「普通」の会話で、それでいて現実的でした。しかし、そんな普通の会話の中で語られた一つのエピソードがとても印象的で、私の中に残りました。

大人になったかつての友2人が話していたもので、中学時代2人でお揃いのタトゥーを入れたというものです。それまでの当たり障りのない普通の日常会話と打って変わった、非日常的な会話でした。それを何事でもないように話すのが私にとってはとても違和感でした。何故そんな、もの珍しい話をさも普通のことのことのように話すのか、もっとそこに至ったきっかけとか経緯とか掘り下げないのか、と。その後も勿論、会話は進んでいきますが、しばらく私はそのタトゥーの話で頭がいっぱいだったほどです。しかし、そんな私の違和感、疑問を一蹴したシーンがあります。それはこの劇中で最もアウトローな存在、神保が放った一言です。「普通だね」自身のタトゥーについて話した男に向かって、神保は呆気なくそう言ってしまいます。私はその一言を聞いて先程までの違和感が一気に消え去りました。ああ、そうか私にとってはそうでなくてもこの人にとってはそれさえ「普通」であり、別にそれ以上でもそれ以下でもないのだと。

その後もこの劇の中では、事あるごとに「普通」というワードが登場します。直接的にそのワードを出さずとも間接的に「普通」に触れた瞬間もありました。それは電話についてを話すシーンです。こうやって違う場所にいるのに話せるなんて凄い、電話を作った人は何故電話を作ろうと思ったのだろう。私たちの日常に溶け込み、今や普通となった携帯電話について触れたこのシーンも私の中では印象的でした。このシーンで私は当たり前に身近にあり、当たり前にそれらを享受できる環境の中で、それらについて普段深く考えないな、と言うことに気づきました。そこからも、この劇中で登場人物たちがそれぞれの全く異なる「普通」を語り、掘り下げ、触れ合うたびに「普通」とはなんだろうと無意識のうちに考えさせられました。

不気味なほどの穏やかさ、平凡さの中でそれぞれの感情、価値観が複雑に絡み合うことで、

それぞれの人生を生きていく。80分ほどの劇でしたが、長い小説を読み終わった後のような清々しさがありました。と、同時に何か言い表せない、晴れ切らない胸のつっかかりというか、息苦しさのようなものもありました。

日々を生きていく中での苦しさ、悩み、孤独、閉塞感。それらがあまりにも丁寧に、繊細に描かれていたからだと思います。大袈裟に、わかりやすくではないけれど確実に日々蓄積されていくそれらを登場人物をたちを通してひしひしと感じました。

映画ともドラマとも違う、小説とも違う。演劇という、今その瞬間目の前で繰り広げられる世界の中だからこそ、役者さん方の目線や身振りや、呼吸から、自分自身の目で、見方で体感できる。この物語を演劇という形で見ることができてよかった。そう思える作品でした。

また、劇中最後のセリフ「生きてる人に、会いたいと思う?」に対しての答えを私はまだ探しています。音響、照明、セリフ、役者さん、全て不自然なほど自然で、観ている側に限りなく近いところでありすぎて、未だその世界観から完全に抜け出すことができずにいます…。

 

レビュアー プロフィール

鈴木たから(すずきたから)
演者

2005 年大阪生まれ、大阪育ち。市岡高校中退。中学生のときに出演した舞台をきっかけに演劇に惹き込まれ、市岡高校在学時には演劇部にて活動。ウイングフィールドで開催された highschool play festival2022(通称 HPF)では脚本、主演を担当。同年 11 月の地区大会をもって高校中退。以降も演劇活動継続中。

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