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「mother fish」

はじめに

 

このレビューは、筆者の都合により、記録映像を鑑賞して書かれたものです。なお、白いたんぽぽの担当者にも、ウイングフィールドの担当者を介して許可を取っています。 ご了承の上、ご覧ください。

 

……

 

「初心者のための永遠」という題の割に上級者向けの内容だ。「詩的」とか、「芸術的」とか、そんな形容表現を待ち望んでいるかのような、要領を得ず、あいまいな言葉がじんわりと溢されていく。そんな空間を楽しむインスタレーションとしてこの作品は受け止めるべきなのかもしれない。

空間、という点で言えば、舞台装置も凝っていた。舞台上を横に三分割するように、大きな窓付きの壁で仕切ってあるのだ。そういう工夫からも、この作品は、空間を享受するタイプの芸術なのだろう。 

それでも構いやしない。映画やドラマと違って、空間として現前するのは舞台芸術の大いなるアドバンテージであるからだ。であるから、映像としてしか観ていない筆者は、その意味で一つ体験を失っていることとなる。 

 ただ、単に空間というものに感心してほしいわけではないだろう。《テセウスの船》や《無限ホテル》(作中ではこの用語は用いられていないが)が出てきていたように、この作品には思想が流れている。 

 だがそれが伝わっていないのではないか、と懸念している。 

 

 劇場は美術館ではない。 美術館において、観客はある程度自由に振る舞える。他の展示を観に行ってもいいし、ずっと同じインスタレーションの中にいてもいい。 

だが劇場は、観客を拘束する。終演まで客席を立つことすら許されない。スマートフォンを見てもいけない。 

そういった環境下で、インスタレーションをやる意味を再考してみよう。このインスタレーションはなんと80分もあるのだ。美術館という空間でも、ひとつで80分かかる作品に挑むのは中々ハードルが高い。 

通常の舞台作品において80分は比較的短いほうであるが、その上でなぜ「80分は長い」と言っているかといえば、この舞台が、ストーリー性を排除したアートパフォーマンスであるからだ。 

 

観客や読者は、常にミステリー(謎のある作品)として作品を観る。 恋愛物なら「この二人は結ばれるのか?」という謎が、バトル物なら「勝者はどちらか?」という謎が、ストーリーのエンディングまで鑑賞者を運んでいく原動力になる。 

だが今作は、ストーリーテリングというよりは、ポエトリーリーディングに終始している印象を受けた。観客を終演時まで持っていくエネルギーが足りなければ、観客が作品に意識を割いてくれなくなってしまう。 

人間の集中力には限界がある。そうであるから、エンタメと呼ばれる作品は、ミステリー(謎)とサスペンス(緊張感)を与えるのだ。作者はエンタメを忌避しているのではないかとも思ったほど、「アーティスティック」で「実験的」な作品であった。エンタメ嫌いは個人の自由であるのだが、そうであるのなら、80分の尺に耐えられるギミックが必要だった。少なくとも筆者は、そんな仕掛けを見つけることができなかった。

 

だが、80分の尺になっているのは、80分にせざるを得なかったからだろうし、そこに作家の本懐が詰まっているはずだ。

要領を得ない会話、哲学めいた詩的表現、それらをゆっくりと紐解いて、噛み砕いて、そんな体験をもってすれば、この作品に地平が広がりそうなことはよく分かる。

見えないからこそ、すぐには読み解けないからこそ、作品は神秘性を帯びる。これを「芸術的」と呼ぶ者もいる。そしてそれを評価する人もいる。 

 

結局のところ、この作品はストーリーではなくインスタレーションであるから、そこには多くの余白がある。その余白に想いを馳せ、この作品の抱えているであろう思慮深さに対して「考えさせられる」とか言ってみる……そんな鑑賞法も正しかろう。

 

レビュアー プロフィール

薊詩乃(あざみしの
るるいえのはこにわ主宰・脚本・演出

アザミ シノ。2023年夏、「るるいえのはこにわ」という劇団を立ち上げ、活動を開始。脚本・演出や一部デザインを務める。同年に2作の自作脚本を上演。クトゥルフ神話的世界を描きつつも、人間の悪意や生々しい感情にスポットを当てている。2024年3月には「火曜日のゲキジョウ」に参加予定。人間ではない。

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