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「燃える善悪の対岸」

観客は「難しかった」「よくわからなかった」とよく口にする。この作品のような、抽象を愛する作風では尚更だ。しかし、こと本作においては、「難しかった」「よくわからなかった」と形容するのは避けたい。

なぜなら、そうしてしまえば、本作が内包している冷笑主義の罠にまんまと嵌ることになるからだ。「深淵を覗くとき──」という(今更引用するのも気が引ける)ニーチェ『善悪の彼岸』の一節があるが、まさしくそれである。

いや、我々は、《死》を覗いてすらいなかったのかもしれない。

 

ところでこの作品は、公演直前に体調不良者が出たために出演者の一部を変更、公演形態もリーディングに変更、と多難な幕開けであったようだ。そのため、演出家が本来表現したかったことのうち一体どれだけを表出できたかも分からない。けれど、それを「可哀想に」と思って、忖度したレビューを書くことは誰も望まないことだろう。過程はどうあれ、観客は舞台に乗ったものと、そこから飛んでくるものを知覚し、吸収するしかないのである。

 

「京都らしい演劇」という言葉でこの作品を修飾していた言説をどこかで見たが、私は、それに対して諸手を挙げて賛成することはできない。要領を得ない会話、何かのメタファーらしき抽象的な表現……たしかに「京都の演劇」が好んで使いそうな手法だ。しかし、京都演劇というものは、現代音楽やコンテンポラリーダンスの文脈と共にあるように思われる。単に「アートっぽい」のではなく、芸術として意図や目的が明確にある現代アートのようなものなのだ。

その意味では、この作品は京都演劇的なものとは違った。「難しかった」という感想が出てくるのも納得できる。それ程までに、きちんと読み解くためには、相当な技能と知識が観客に要求されるような作品だったように思われる。

 

「難しかった」とされがちな原因はいくつか思い当たる。

虚実が入り乱れる構成自体を私は否定しない。が、その境目があまりに不明瞭で、かつ、その境界線を観客が暴いたところで何もカタルシスが得られそうになかったのだ。そのため、観客が思考を止めがちになってしまう。

観客が何も考えずに没入できる舞台であればよいが、今作はそうもいかない。「何かのメタファーらしき何か」を散りばめている演出都合上、観客の視点は、「物語そのものを感覚する者」ではなく、「物語を観て何かを感じ取ろうとする観測者」という一段上(メタ)の段階へ移行するのを余儀なくされているからである。

それでも踏みとどまって物語に没入しようとしても、抽象的な舞台美術、要領を得ない台詞……挙句の果てには「同一人物の心内文を複数人で読む」という演出技法によって、その試みは徒労に終わるのである。

謎が完全に明かされるわけではない、という今作のような終幕も、私は嫌いではない。しかしその場合にだって、考察しがいのある物語の重層性や、手がかりとなる鍵やその破片が必要なのだ。

 

しかしだからといって、この作品に対して何も感じなかったわけではない。

姉──主人公ないし視点人物──の赤ん坊を「毒蝮」と呼びあやす妹……そんなシーンから物語は始まるのであるが、この居心地の悪さは好きだった。母親のくせにこの異常な妹から赤ん坊を分捕ろうとしない主人公も、その居心地の悪さに一役買っていた。

のちに、例の赤ん坊は人形であったらしいことが何となく明かされる。だから姉が本気で赤ん坊を奪い取らなかったのだ、と一瞬納得する。しかし赤ん坊が泣く声の効果音が鳴っていたことを思い出し、頭の中に疑問符が浮かぶ。それどころか、その妹すら、実在するかどうか曖昧だと観客は知ることになる。

この異様さ、ある種サイコホラー的な不気味さの演出については目を見張るものがあった。「これからどんな物語が始まるのか」「この異常さの謎にどれほど迫れるのか」──観客はそういう目線で物語の行く末を追う。追うのであるが、この作品の場合は「難しかった」に帰結しそうな展開であったがために、その点は残念だった。

 

さて、ここからが本題だ。

 

物語の最終盤、「結婚したいがお金が心配だ」のような話題になったとき、主人公が「殺人でも強盗でもすればいい」「他人の命なんてどうでもいいだろう」という旨の発言をするのである。私には、これこそが、この作品を通底している思想であるように思われる。

『この作品には死がたっぷり含まれています。』という題が示す通り、作中には「死がたっぷり含まれて」いるのだが、それらは、呆気ないわりに遠い存在として、寒々しいものとして描かれている。

断続的に流れるガザ侵攻のニュース──何度も何度も流れるわりに、それが本筋に大きくかかわることはない。登場人物も基本的には聞き流すばかりである。

核爆弾──「核爆弾で全滅というストーリーはリアリティがない」と言われた劇作家は「核爆弾だってリアリティがある」と反論する。バカ騒ぎの居酒屋で。

大雨に遭って姿を消した主人公の友人たち──その《死》はもはや画面外だ。

自殺する主人公の妹、そして恋人──その《死》の描写は、舞台上に置いてあるこぢんまりとした椅子から「ひょい」と軽くジャンプするだけ……私はこの描写から自死であると推測したが、本当は自殺ですらないかもしれない。

極めつけは、主人公の父が殺されたというニュース音声──殺した人物の名前は「レッツラ・ゴー」氏だと告げられる……私は劇場で危うく失笑しそうになった。

最早ここまでくると、馬鹿にしているのではないかとすら感じる──《死》というものを。あるいは《死》の傍観者──衆愚、あるいは我々観客を。もしくは、《死》を軽々しくも戯曲にし、あげく数千円をかっぱらおうとする関西小劇場界へのアンチテーゼと解釈することもできそうだ。

《死》とは重々しいものだ、と皆が思っている。しかし他人はどこまでいっても他人である。震災が起きようが、自死を選ぼうが、凶刃に倒れようが──「結局は他人なんだから、本当はどうでもいいだろう?」「今日だって、どうせ当たり前に生活しているのだろう?」──そんな冷笑主義的なメッセージを私は受け取った。

さてここで、「京都的」らしき演出が功を奏してくる。基本的に誰が何を言っているのか分からないし、舞台上の何が現実で何が虚構であるかまったく分からないので、登場人物に感情移入することもないのだ。物語に没入させるというよりは、抽象的な表現によって観客の視点をメタに押し上げている。つまり「傍観している」という立場に観客を追いやっているのである。

これでもう分かったろう。「たっぷり含まれて」いた《死》を、「なんだか難しい作品でしたね」「よく分かりませんでした」とかなんとか言って傍観するその態度は、今日も戦争やら災害やら自死やら殺人やらで何人死のうがなんとも思わない衆愚の姿そのものなのである。

 

レビュアー プロフィール

薊詩乃(あざみしの
るるいえのはこにわ主宰・脚本・演出

アザミ シノ。2023年夏、「るるいえのはこにわ」という劇団を立ち上げ、活動を開始。脚本・演出や一部デザインを務める。同年に2作の自作脚本を上演。クトゥルフ神話的世界を描きつつも、人間の悪意や生々しい感情にスポットを当てている。2024年3月には「火曜日のゲキジョウ」に参加予定。人間ではない。

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