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「たしかにわたしは所在している」 

初めて両親の言いつけを破ったのは、6歳のときである。石川県にある千里浜の遠浅に圧倒されながらも、海が秘める可能性に思いを馳せた私は、両親の目の届かないところに一人で行ったのだ。私から見た海は大きくて怖くて美しかったけれど、海から見た私なんて小さくてなんでもなくて、そもそも私たち人間がバッタやカエルを総称で呼ぶように、海から見た私はたくさん存在する人間のうちのひとつでしかないよな、なんてことを考えた。だから私は、海に私の存在を知らしめるために、私の全身が浸かる限界まで歩いて潜ったのだ。 

 遠浅だから、沖50メートルくらいは水深1メートルくらいが続く。 

ただ水に潜った時の、水泡の音さえも聞こえないような無音の刹那に差し込む陽の光を、何度も私はガラス瓶あるいはエポキシ樹脂に閉じ込めておきたいと願ったことがある。 

沖から40メートルほどを歩いたころ、私の呼吸は苦しくなった。その先なんてどうでもよくて、このまま苦しさが増していく感覚の不快さをどうにか除去したくて後ろを振り返った、しかし、沖は思っていた以上に遠くて、いよいよ本格的に死の恐怖を感じたため、べそを海水でごまかしながら沖へ帰った。私の話は以上である。ただ、本作を観劇したときのあの微睡は、なんだか当時の感覚に非常によく似ていて、ふと、この体験談を皆様に聞いていただきたくなったのだ。 

 本作の大きな特徴は、一つの空間が多様なシチュエーションに変化していくことにある。アパートの一室、あるいは水族館、ただ世間を皮肉った別の何かが該当するかもしれないが、恐らく、作者が我々へのメッセージを最も強くのせているのは、やはり水族館のシーンではないだろうか。世の中、というより、人間が社会としてではなく、動物として生活するサイクルが成立する条件は、ときに残酷である。たとえば、食肉、サーカス、ペットショップ、顕微鏡、動物実験__人間が食物連鎖の頂点に立つことで成立することである。これを逆の立場にすり替えたイメージ画像__すなわち、人間がサルに芸をするよう調教されていたり、人間がミジンコに顕微鏡で観察されていたりする画像などが出回ると、それが「恐怖画像」「グロ画像」と定義される。「恐怖」「グロ」と指定されるようなことを、我々は日常的にしているのだ。それによく似たシーンが作中では何度も出てきた。年間パスを購入してもらうほど水族館に通い詰める子どもが見ていたのは人間の形をした生きもので、作品の構成の根本がこれを人間と指定しているのかはわからないが、如何せん我々は「鑑賞する側」だったことで、「鑑賞される側」にいる生き物に強く感情移入してしまったのだ。そのシーンのインパクトの強さは実に形容しがたく、まさに「恐怖」「グロ」の一環だった。非常に美しかった。 

ひとつ惜しい点をあげるとするならば、全体的に台詞が聞き取りづらかった。私自身の聴覚に問題があるのだろうか、それは実際にあるのだが、聞き取りづらかったのは私だけではなかったため、私を含めた幾人は言葉のインパクトよりも、雰囲気・空間のインパクトに圧倒されたことだろう。照明や舞台美術など、空間が代わって説明していると表現するのが適当だろうか、視覚による情報に私はやや頼りがちに作品を鑑賞していた。きっと言葉にも多くの含みがあるはずだから、私は改めてそれを吸収したい。この作品が提供する黄昏と微睡は、このまま眠りにつくと二度と起きてこられないような感覚であり、死んでもいいか、でも、生きていてもいいな、というような繊細すぎる感情を奮い立たせてくれる。人々が賑わっていたところから人が離れ、自分が最後の一人になったとき、退室する前に消灯するあの淋しさによく似ていたのだ。 

 

レビュアー プロフィール

村上萌(むらかみもえ
主に役者、戯曲、衣装の勉強をしています。

2022年に近畿大学文芸学部芸術学科舞台芸術専攻に入学。34期生として舞台芸術に関する全ての分野を幅広く学ぶ。

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